ルイ・ヴィトン・ストーリー 『ピエール・サヴォルニアン・ド・ブラザ』 150年以上も人々に愛され続けるブランド・ルイヴィトンの歴史の物語


ルイ・ヴィトン・ストーリー 『ピエール・ブラザ』

ピエール・サヴォルニアン・ド・ブラザ

ピエール・サヴォルニアン・ド・ブラザ

(Pierre Paul Francois Camille Savorgnan de Brazza、1852年 - 1905年 )

イタリア系フランス人の探検家。
イタリア生まれ、のちにフランスに帰化する。パリ地理学会の支援により、コンゴ川流域を探検し、中部アフリカのフランスによる植民地化に重要な役割を担った。現在のコンゴ共和国の首都であるブラザヴィルは、彼の名にちなんでいる。

ピエール・サヴォルニアン・ド・ブラザは1852年、イタリア・ローマで、フリーウリ地方出身の貴族の家系に生まれ、1874年、22歳でフランスに帰化しました。

19世紀末、それは遥か遠い地への探検と征服の時代でした。
探検家であり人道的植民地主義の主導者だったブラザは、1875年、フランス海軍士官だったときにアフリカ探検隊を率いてダカールに上陸し、オゴウェ川の水源を探すために川をさかのぼりました。フランスに戻ったブラザはその報告を地理学協会で講演し、 レジオン・ドヌール勲章を授けられました。

ベルギー国王レオポルド2世は、自らの野心的なアフリカ進出計画に加わるようブラザに要請しましたが、彼はそれを辞退しました。 ブラザのライバルでもある探検家ヘンリー・モートン・スタンリーは、臆面もなく金目当てにベルギー国王の申し出に飛びつきました。 これを知ったブラザは、急いで2度目のアフリカ探検を組織したのでした。

ブラザは、自らを全権代表として、テケ族の首長マココに、コンゴの領有権をフランスに移譲する条約の交渉を行いました。
そして、1882年に正式に承認され、ブラザは西アフリカの総務長官に任命されました。しかし、レオポルド2世は、コンゴの1部を自らの私有地とすることを強く要求しました。
1884年、ドイツ宰相ビスマルク主導で行われたベルリン会議でようやくコンゴ問題に決着がつけられました。 フランスはコンゴ川左岸の権利を放棄し、ブラザを植民地総務長官に任命する一方、依然として奴隷を使用しながらコンゴの富を分け合っていた商人たちに、数百か所の土地を払い下げました。
しかし、ブラザは植民地の経営に失敗し、1898年解任されました。

ベッドトランクの蓋 ベッドトランク

その頃、2つのスキャンダルが新聞に暴露され、西欧の植民地帝国を揺るがしました。
その1つはベルギー領コンゴの赤色ゴムの問題で、これによりレオポルド2世は国際調査委員会の意向に従うことになりました。
もう1つは、フランス領コンゴのゴーとトケの事件で、この地域で数々の信じがたい野蛮行為が行われていることが問題となりました。
フランス政府はベルギー領コンゴと同じように、外部からの仲介を受けるのを恐れ、ブラザに現地の状況を念入りに調査するよう要請しました。

ライティングデスク・トランク

1905年3月、探検に出発する直前、ブラザはルイ・ヴィトンにいくつかの注文をしました。自分用および同行する妻のためにモノグラム・キャンバスのベッドトランク2点、それに付属するレイエ・キャンバスで作られた折りたたみ式の馬毛マットレス。そして、銅製のライティングデスク・トランクをオーダーしました。 ブラザはこのデスクトランクに秘密の仕切りを作るよう注文しました。ルイ・ヴィトンはデスク付きのトランクをデザインし、書類を入れるコンパートメントの他に、限られた人間しか知らない隠し引き出しを組み込みました。

再びコンゴを訪れたブラザは、現地で目にしたことに唖然としました。恐るべき状況に関する報告書を作成するためのメモが秘密の引き出しの中にぎっしり詰まっていたのでした。その時マラリアを患っていたブラザでしたが、休む間もなくその報告をまとめました。
しかし、帰国の途中病気が悪化し、1905年9月14日、他界してしまいました。 ブラザが亡くなって10日後、調査団はボルドーに到着し、トランクはパリに運ばれました。ブラザのメモが入っていたとおぼしきトランクは、2度と家族のもとへは戻ってきませんでした。

ジョルジュ・ヴィトンは外務省から召喚され、大臣立ち会いのもと隠し引き出しを開けるよう命じられました。複雑な仕掛けの隠し引き出しの開け方を知っていたのは、ブラザ本人と彼の秘書、そしてジョルジュ・ヴィトンの3人だけでした。

しかし、当時人々はみな、ブラザのトランクに秘密の仕切りがあることを知っていました。 フランス『イリュストラシオン』紙は、デスクトランクについて、

「このトランクは、彼に託された書類をあらゆる攻撃や秘密の漏洩から守るために特別につくられたものである。
このトランクで、彼の目に触れたすべての書類があまりにも早く運ばれた。植民相が任命する調査委員会が、書類を詳細に調べることになっており、調べが進めば、世間を騒がせているコンゴ事件が、すべて白日のもとにさらされるだろう。」
1905年10月14日掲載しました。

そして、その秘密の仕切りは開けられたのだが・・・・。

かの探検家のメモが何を明かしたかはいまだ謎ですが、アフリカの人々が彼に敬意を表して、コンゴの首都をブラザヴィルと名付けたことからも、ブラザの現地での活躍ぶりをうかがい知ることができます。

フランス政府は、ブラザを国葬にすると申し出ましたが、ブラザの未亡人は、夫がパンテオンに埋葬されることを拒否し、アルジェのブリュ墓地で安らかに眠ることを希望しました。

そして、それから100年を経た2006年10月、サヴォルニアン・ド・ブラザとその家族の遺骸は、ブラザヴィルの霊廟に移されました。

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